食べ物に困ったら、宗教団体は助けてくれるのか?その1

ある困った男がいる。年齢は70歳を過ぎている。彼には家族も子供もいない。彼は、経済雑誌の就職したいランキングで、上位にランキングされる一部上場会社の役員にまでなった男なのだが、どこで道を間違えたのか、役員退任後、それまでの派手な生活が抜けず、貯金が底をつき、帰る家もなく、ホームレス同然の生活を送るようになった。

彼は様々な人間から、お金を借りるようになり、日々のご飯にも事欠くようになっていった。彼は自分でお金を稼げないし、貯金もない。あるとき私は彼に対し、生活保護をすすめた。彼は生活保護という単語を聞いて怒り出した。何度もすすめたが、彼はかたくなに生活保護を拒み、首を縦にふらなかった。

私はそんな彼を見て、もし自分が同じような立場になったら、どのようにサバイバルするだろうか?考えた。はじめに役所の生活保護の担当者に電話した。すると、自宅はどこかと聞かれた。彼になったつもりで答えた。すると「その住んでいる地域を管轄する役所に相談してください」という。家がもうないというと、「それでも、そこで相談してください」という。

私は少しは生活保護に対する知識を持ち合わせていたので「生活保護は、住所地とは関係なく、その行き倒れた先の役所で申請することになってますよね?」と確認した。すると担当者はしぶしぶ「それでは、こちらに相談しにきてください」と答えた。「隠せないなら、本当のことを言うしかない」そのような雰囲気があった。周辺の役所に電話した。新宿区役所、渋谷区役所。。。どの市役所も対応は一緒だった。生活保護はなるべく、こちらでは申請させたくない。そのような強い意図を感じた。

さらに、担当者に尋ねた。「昨日から何も食べてないんですが、生活保護を申請すると、保護が開始されるのはいつになりますか?」すると担当者は「1ヶ月くらい先ですね」という。「1ヶ月先まで食べ物は何も食べれないんですか?」その担当者に尋ねると、「そうですね。自分で何とかしてもらうしかないですね。当面のお金ということでしたら、社会福祉協議会さんのところで、相談してください」という。生活に困って、今日、明日の食べるものにも困っている人に1ヶ月待てというのは、おかしいのではないだろうか? 別な役所に聞くと「結果がでるまで2週間は必要」という。それでも長い。食べ物に困ってから生活保護を申請しても、生活保護の開始がされるころには、餓死しているかもしれない。

社会福祉協議会に電話してみた。すると食べものをくれるわけではなく、困窮の状況により、お金を貸してくれるという。いくらのお金を貸してくれるのか聞いてみると、簡単には答えてくれない。しかし、しつこく聞いてみるとようやく「1日1000円」という答えが返ってきた。家がなくホームレス状態で1日1000円で衣食住をまかなうことは、かなり厳しい。社会福祉協議会のその担当者によれば「返すあてのない人にはお金は貸せない。貸すときには、返してもらえそうか確認するため、通帳や日々の収支を確認させてもらいます」。

食べるものに困ったら生活保護を受けろという人がいるが、いざ困ったら、生活保護が出るまでの期間の少なくとも2週間は、自分でなんとかしなくてはいけない。日本の福祉行政は、今、目の前にいる飢えている人に手を差し伸べない。これが世界を代表する経済大国、日本の姿なんだろうか。

「国や役所はあてにならない」そんな鬱積した思いを抱え、このような状況になったとき、次にどこに助けを求めたらいいか、どの組織が使えるか考えた。

思い浮かんだのは、宗教だ。宗教団体なら助けてくれるかもしれない。彼のような今日の食べ物に困っている人に救いの手を差し伸べてくれるはずだ。私は電話してみた。

まずは、曹洞宗。歴史的な経緯から曹洞宗は永平寺と総持寺に本山が別れている。私は両方の本山に彼の事情を話し、彼が曹洞宗または近くのお寺で食べ物をもらえないか聞いてみた。すると「お話を伺うことはできるのですが、物質的な支援は行うことはしていません。目の前でおなかをすかしている人がお寺に来た場合、お寺の住職によっては食べ物を分けることもあると思いますが、それはあくまでも個人的な好意です」という。私は少々意地悪な質問をしてみた。「彼は曹洞宗の信者ではないが、もし彼が曹洞宗の信者であったとしても対応は同じなのでしょうか?」この質問に対し「そうですね。変わりません。食べ物に困って飢えた信者が、本山にこられても、何もしてあげられません。話を聞くだけです」。私はもっと宗教というのは暖かいもので、飢えて食べ物に困っている信者が寺を尋ねてきたら、少なくとも、飢えを満たす最低限の何がしかの助けがあるものだと思っていた。

次に浄土宗。本山に電話した。彼の現在の境遇に同情するものの「何もしてあげられない」という。「物質的にどうこうする場所ではない。精神的なサポートしかできない」とのことだった。精神的な問題を解決するよりも、今お腹がすいている状態を解決するほうが優先順位が高いと思うのだが、「なにもできない」という。「飢えた信者が本山にきて食べ物を請うた場合でも、お寺はその信者を助けないのでしょうか?」と聞いてみた。すると「何もしてあげられない」との回答。これが法然上人の教え、そしてその教えを修めた者が出す結論なのだろうか? 曹洞宗もがっかりだが、浄土宗にもがっかりした。

真言宗、日蓮宗の本山にも電話した。基本的には曹洞宗、浄土宗と同じ回答だ。寺の境内に飢えた者がいようが、その飢えた者が信者だろうが、何もしないという。心ある住職は、個人的に何かするかもしれないが、それはあくまでも個人の好意とのこと。話しは丁寧に聞いてくれるし、共感して聞いていただけるのだが、それでは飢えている者は、飢えたままで、目の前の飢えは解決しない。

次に創価学会。東京都信濃町の本部に電話。彼の現在の境遇を話し、信濃町にある本部にいけば、今日の飢えを満たすことができるか聞いた。すると「本部にきても、食べものを出すとかそういうことはしていない」という。創価学会の信者さんが飢えた場合、その信者さんを助けるような仕組みが創価学会の組織にあるのか尋ねた。すると「本部では何もしません。地区長によっては、個人的に助けることがあるかもしれませんが、その地区長次第です。本部が地区長に連絡して、助けてあげてくださいなど、お願いすることはしてません」という。「創価学会さんは、世界各地で食糧支援も含めた人道援助をされているようですが、信濃町本部に食べ物に困って飢えている信者さんが来ても何もしないというのは、「人間の連帯」の重要性を説いている創価学会さんの価値観と相容れないように思うのですが?」と尋ねると、相手はそのまま受話器を置き放置。何も言葉を発しない。受話器から電話の着信音、事務所の音が聞こえてくる。何度も電話したが、着信放置。創価学会のWEBページを見ると「対話に積極的に取り組んでいる」と書いてある。これが創価学会の考える「対話」の形なのだろうか?

天理教。実は天理教の信者の人を身近にしっている。その人が天理教を信仰していることは全く知らず、長年お付き合いをしていたのだが、あるとき、彼の親父さんが自伝を出版し、私はプレゼントにその本をもらった。その親父さんは、今はなき日本を代表する家電メーカーの役員だった方で、その本は彼の半生をつづった本だったのだが、本を読むと、天理教の教え、迷ったときに天理教に救われたと、いたるところで天理教の話が登場する。その方とは家族ぐるみでお付き合いしているのだが、とても素敵なご家族で、そのときに天理教という宗教があるということを知った。また、近所の人で、家が家事になって家族ごと焼け出された人がいたのだが、焼け出されてすぐに、近所の天理教の信者の人がきて、天理教の施設にしばらく置かせてもらって大変助かったという話を聞いた。そんな経験から、天理教に対し、漠然としたよいイメージがある。奈良にある天理教の本部に電話してみた。食べ物に困っている彼の話をしてみた。すると「話しはお聞きすることはできるのですが、食べ物を差し上げるということはしていません。お近くの教会にいかれたら、もしかしたら、教会長が個人的に食べ物を分けて差し上げるかもしれません」。他の団体と同じ回答だ。天理教も助けてくれないのか。ただ、私の知り合いが学生時代、食べ物に困って近所の天理教の教会に行ったら、道路を掃除するよう言われ、道路を掃除したら、ご飯をいっぱい食べさせてもらった話を思い出した。それは教会長の個人的な好意だったのだろう。

救世軍。救世軍はプロテスタント系の団体だ。私はこの団体をかなり評価している。ある友達は「救世軍のせいで、赤線街が日本から消えたんだ!救世軍は男の敵だ!!」とエライ剣幕でこの団体への恨みを口にしていたが、私はかなり評価している。ある時、知り合いが病気になった。健康保険証がなく、お金もなく、近所の開業医全員にお金がないので無料でみてくれないかと電話をしたものの、診察をやんわりと断られた。そんなとき、救世軍だけは彼を見捨てなかった。救世軍ブース記念病院で彼は無料で診察を受けることができた。さらに、ビックイシュー(ホームレスだけが売ることができる雑誌)を売っているホームレスから、救世軍が助けてくれたという話を何度も聞いた。私は救世軍のお世話になったことがないのだが、救世軍に助けられたという話をあちこちで見聞きするものだから、年末に行われる社会鍋のときには、見かけたら必ず寄付をするようにしている。東京の神田にある救世軍本部に電話をした。飢えている彼の事情を話した。すると「都内ですと炊き出しは1ヶ月に1回やっているのですが、今月は終わりました。もし食べ物でお困りであれば、保証はできませんが、近くの小隊(教会)をお尋ねください。カップラーメンであればあると思います」なんと素敵な回答なのだろうか!!! 信者でないにもかかわらず、飢えている者が教会を訪れたら、カップラーメンをくれるというではないか!!困っている者がいたら、信仰の有無にかかわらず、その人を助ける。これが本来の宗教のあり方ではないのか? 救世軍を再評価した。

幸福の科学。本部に電話をすると、熱心に話を聞いてくれる。結論からいうと、ここも他の仏教系団体と変わらない。飢えた者がきても、話を聞くことしか出来ないという。物質的な支援をしても、その場限りで終わってしまう。それではその者のためにならない、魚をあげるのではなく、魚の釣り方を教えるべきだと強調していた。確かに、それは一理ある。ただ、魚の釣り方を覚える前に、魚を食べないと、お腹が減ったままでは、肝心の魚のつり方を覚えられないと思うのだが。信者の人が飢えて食べ物に困った場合、その信者を助けるのか聞くと、そういうことはしないという。全く物質的なサポートはしないようだ。ここも他の団体と同じだが、地区長個人の考えによっては、サポートをするかもしれないという。

日本ムスリム協会。イスラム教の信者を悪く言う人がいるが、イスラム教の信者が多い様々な国を旅行した経験からいえば、日本にいるイスラム教信者も含めて、すごく親切な人たちが多い。イスラム教の国は安心して旅行できないという人がいるが、むしろイスラム教の国々の方が安心して旅行できる。イスラム教の信者の多い国の路上で見る光景にいつも驚かされるのだが、道端で食べ物に困っていたり、お金に困っている人がいたら、通り過ぎる人が次々とお金をわたし、食べ物を渡す光景を目にする。まるで、そうすることが当たり前であるかのように。日本から近いイスラム教の国としてはマレーシアがある。マレーシアでも同じ光景を目にする。あるとき、路上のホームレスに、お金を渡し終えた若者に「なんでお金を渡したのか?」と理由を尋ねたら、「貧しい人を助けるのは当たり前だ」という答えが返ってきた。しびれる。このようなセリフをいえる若者が今の日本に何人いるだろうか? 目の前にいる貧しい人に救いの手を差し伸べる若者が一体何人、今の日本にいるのだろうか? 日本ムスリム協会に電話。すると「ずっと助けることは難しいかもしれないが、出来る範囲で助ける」という。池袋のモスクでは、近隣のホームレスを対象に炊き出しをしているという。イスラム教を信仰しているか、信仰していないかに関わらず、困っている人を助けることは当たり前だという。その当たり前を、行動として表現できる信仰者は、本当に少ない。

今回、食べ物に困ったら宗教は助けてくれるのか?をテーマに調べてみたが、仏教系団体は基本的には助けてくれない。その教義を信仰している信者でさえ飢えても、助けてくれない。あるとき、新宿駅で托鉢をしているお坊さんを見かけた。寄付されたお金を何に使うのか、わたしはずっと、彼を観察していた。すると、托鉢を終えた後、集めたお金をもって、彼はコンビニに行った。彼は、おにぎりとペットボトルを無数に買った。そして、新宿駅周辺にいたホームレス一人ひとりに声をかけ、おにぎりとペットボトルを渡して回っていた。彼に話しかけてみた。すると、彼が仏門をたたくまでに波乱万丈の人生を送ってきたようで、ホームレスが他人事とは思えないと話してくれた。彼のような心あるお坊さんもいるのだろう。飢えている人が目の前にいても、その人を助けないと回答する仏教系団体の姿勢は、高尚な教えを信者に説いている宗教団体の姿勢として、正しいのだろうか?

 

(続き)食べ物に困ったら、宗教団体は助けてくれるのか?その2

One thought on “食べ物に困ったら、宗教団体は助けてくれるのか?その1

  • 2017-07-29 at 15:35
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    食事を出して食中毒にでもなったら問題になります
    そもそも本山はお坊さんの修行道場なので役割が違います
    出家して修行僧になれば食事の世話はしてくれるはずですよ

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